生きてることは当たり前じゃない

昨日、激しい頭痛におそわれたときの話。

お酒を飲んで帰って来たら頭痛がした。二日酔いなら水を飲めば治るだろう、と思っていたらどんどん痛みは強くなる。首が痛い。枕に触れるだけでマジで痛い。なんだこれ。内側から握りつぶされるような感覚がある。そのとき唐突に映画『into the wild』の主人公クリス・マッカンドレスが死ぬシーンを思い出した。アラスカの荒野、たった一人で野営中に、毒性の植物を食べてしまった主人公は、顔面蒼白になり廃棄されたバスの中で、死ぬ。

普段と様子の違う、激しい痛みに呻きながら、主人公の最期が頭をよぎる。

 

“happiness is only real when shared” (幸福は共有されて初めて現実になる)

 

主人公が死ぬ間際に書き残した言葉を思い出す。廃棄されたバスの中で苦しむ主人公とぐったりと痛みに悶える自分の姿がだぶって見えた。頭が痛い。胸が熱い。発熱と頭痛の症状を調べたら髄膜炎くも膜下出血などのワードが出てくる。そういえば星野源くも膜下出血で倒れたことを思い出した。自分だって例外ではないかもしれない。不安と痛みを和らげようと、流すと[secret track]と題された曲が流れる。

 

朝日が つばめが 雲を切る

また会えるなんて奇跡みたいだ

 

 

すでにまともな精神状態じゃない。のんきなことは考えられない。これ以上痛みが酷くならないことを祈るしかない。うぅっと呻きながら、苦しみに耐える。朝になれば病院に行ける。いざとなれば救急車を呼ぼう。心の中で助けて、助けてと呻いた。痛い。痛い。星野源の曲もわずかな刺激が苦しくて止めてしまった。

 

無音。浅い呼吸をしながら、その後3時間、痛みの中で耐えていた。全身の細胞が悲鳴をあげて闘っている。自分の身体は、自分の意思とは関係なく働く別の生き物の集合体のように思える。自分は借り物の身体に細胞という生命の力を借りて、文字通り『生かされている』のだ。生きるも死ぬも彼らに左右されている。

 

朝になって母親が起きて来た。痛い、苦しいと言うと困りながらも病院に連れて行ってもらえた。少し安心してうとうとしたら、痛みは病院につく頃には軽くなっていた。朝の駐車場で、車で母親と会話しているときに、涙が止まらなくなってしまった。死ぬかと思った。

 

就職のこと。お金のこと。仕事のこと。

毎日不安ばかりで、それでも前に進もうとしていた。やるべきことはたくさんあった。そればかりが頭から離れなかった。でも今は助けてくれる母親もいつか倒れるかもしれない。自分だって突然、死ぬかもしれない。そのときに家族の力になるだけのお金を稼がなきゃいけないのに、自分はこの先どうなるかもわからない。そんなプレッシャーが不安と相まって、堰を切ったように溢れてきた。限界だった。

 

病院があいて、すぐに診察を受けてもらった。

先生は最初は心配してたけど大したことないと判断したのか(こっちは本当に死ぬかと思ってたが)暗い顔をしている自分に、笑顔を見せ、薬を出してくれた。救われた気分になった。

結局、謎の頭痛は大事には至らず、大げさに言っている患者の風邪という形で収まった。

 

人は例外なく、死ぬ。生きるか死ぬかはコントロールの外にある。生きているということは、たまたま生きていられる、というだけのことで、死ぬときにはあっさり死んでしまう。だとしたら、今出会う人や家族に明日も会えるかは分からない。二度と会えないかもしれない。当たり前のように助けてくれる人たちがいることも当たり前ではない。自分をこの世界に生かしてくれている存在に、生きていることに感謝するしかないのだ。くも膜下出血で倒れた頃の星野源の曲を再び聞いて、また涙が止まらなくなってしまった。

 

朝日が つばめが 雲を切る

また会えるなんて奇跡みたいだ

どこにいてもひとりだとさ

それでも次の扉を

温かい未来を信じて